カテゴリー別アーカイブ: 社長ブログ

2024

03.30

(つづき)

10年前の3月11日東日本大震災が発生しました。

東北地方でポスティング業を営む㈱アオバヤさんと当社はいろんな情報交換をしながら、社員同士の交流も生まれました。

震災から2年後の秋、㈱アオバヤさんが主催して被災地の沿岸部40kmを歩くチャリティーウォークイベントを開催するという情報が入ってきました。当社でも社員に募集して一緒に参加しようと呼びかけました。当時?の若手を中心に数名が参加することになり、レンタカー2台に分乗して一路仙台を目指しました。

↑長野を出発するときの様子です。皆、まだ震災から2年たった被災地をどんなふうに歩くんだろうと考えながら、40km完走?完歩できるかなと不安いっぱいでした。

↑ 出発は、仙台空港の近くでした。当社関係の参加者全員で出発前に、「配布魂」タオルを広げて記念写真をとりました。仙台空港にも大津波が押し寄せ、大変な被害を受けていましたが、このころには、滑走路と空港施設の復旧がすすみ、定時運行ができるまでになっていました。当時の被害状況がわかる写真がパネル展示されていました。

↑チャリティウォークは、参加者4000人を超える大規模なイベントでした。多くの参加者が震災を忘れないように、被災地の復旧状況を見ながら歩きました。

 

↑途中、このように廃校になった小学校の近くを歩きました。ここまで、大津波が襲ったのだと思うと、自然災害の怖さを実感しました。近くには、まだまだ壊れたままの民家も散在していました。高台には、災害仮設住宅も遠くに見ることができました。

なんとか7時間ほどかけて、40kmを歩きとおし、仙台市内の公園にあったゴールにたどり着きました。当社の関係者は、ほとんどが完歩することができました。

↑ゴール地点では、㈱アオバヤの社長さんが、ひとりひとりの完歩者に握手をしてくださり、多くのスタッフが拍手で迎えてくれました。完歩した達成感とこんなに多くの方がゴールで祝福してくれるという演出に感動したことを覚えています。足が悲鳴を上げていましたが、一気に疲れも吹き飛びました。

近くには、飲食やマッサージの出店もあり、みなさんくつろいでいました。震災の被災地を40kmも歩くことにより、震災への認識も深まりました。

当社関係者は、折角仙台まで来たので、もう1泊して、翌日は、伊達政宗像がたっている仙台市を一望できる公園を訪ねました。戦国武将の格好をしたボランティアの皆さんが一緒に写真に収まってくれました。

 

※今年、東日本大震災から丸10年ということで、さまざまな報道やイベントがありました。また、このタイミングで震度5強の地震が2回、東北地方を襲いました。津波注意報も出されました。

私もあらためて、10年前の写真をみていて、当時のことをいろいろと思い出しました。震災は、㈱アオバヤさんとの交流のきっかけになったおおきな出来事だったと思いました。福島にも何回か足を運び、放射線汚染からの復旧の様子を見る機会もおおくありました。

どんな場面にも、全国から来ている若者の姿があり、勇気づけられたことを思い出します。

あれから10年、ポスティング業は、全国的にみるとおおきな産業に成長してきました。

日本ポスティング協同組合の活動をとおして、多くのポスティング会社とも交流させてもらうことができました。なにか、ひとつのことをずっと続けていると、いいことがあるなと思う今日このごろです。これからは、なにか恩返しができる活動ができるといいなぁなんて、漠然と思っています。

(東日本大震災から10年のブログシリーズは今回でおわりです)

 

 

 

 

 

 

2024

03.23

年度末、3月28日(日)には、長野県内の様々な通行止めゲートが取り外されます。

注目の一日になりそうです。

①28日早朝、上田電鉄別所線の千曲川橋梁がついに開通します。

2019年10月13日の台風19号は、千曲川沿岸に大きな被害をもたらしました。長野市では堤防が決壊し、多くの人が被害を受けました。上田市では、市民のシンボルだった千曲川の赤い橋が落ちるという惨事に至りました。

これが当時の写真

 

 

1年5ケ月を経て、別所線が全線開通になります。1番電車は、5時55分に上田駅を出発するようです。皆さんで早起きして、手を振りましょう!詳しくは、まかせて上田の中村特派員の報告を待ちましょう!

 

 

②28日(日)14時、長野市の北部幹線道路、高田若槻線の桐原交差点からSBC通りまでの約800Mが開通します。

昔から、なぜここから急に狭くなるの?と思っていた道路がついに、高規格の道路として開通します。数十年かかって、近隣の皆さんにとっての悲願が叶うのだと思います。

 

 

 

③28日(日)17時、中央道座光寺PAがETCスマートインターに生まれ変わります。

松川インターと飯田インターのちょうど中間地点になります。ここの出入り口が使えるようになると、一番喜ぶのは・・・・

 

はい、当社本社およびまかせて飯田勤務の皆さんです。そして、当社の社員の皆さんです。これからは、座光寺PAがもっとも近い中央道へのアクセスになります。何十億円もかかっている一大事業でしたが、実はこれはリニア新幹線長野県駅へのアクセスを考えた開通です。長野県飯田市がだんだんと交通の要になっていきます。注目です。

(ただし、ETC車載車しか、スマートインターは通行できませんので、ご注意ください)

 

※東日本大震災から10年がたち、当時何を考えて行動していたかのブログシリーズは1回お休みです。次回は、東北の被災地海岸線沿いを40km歩くイベントに参加した時のことを当ブログで紹介します。次回をお楽しみに。

 

 

 

2024

03.19

(つづき)

10年前の3月11日東日本大震災が発生しました。

その1ケ月後、私と当社の社員で、東北地方でポスティング業を営む㈱アオバヤさんの営業所を訪問し、義援金と栄養ドリンクを届けてまわりました。災害ボランティアや被災地でのポスティングの経験ができたことにより、ポスティングビジネスへの使命感が強くなったことを覚えています。

その後、当社のほかの社員も自主的に福島県富岡町などへ災害ボランティアに参加する者もでました。

大震災から5ケ月後2011年8月、東京の数社と共同で実行委員会を立ち上げ、東北地方でポスティング業に関わる4社の会社の社長さんや責任者の方々を東京へお呼びして、「震災復興シンポジウム」を開催しました。もちろん、そのうちの1社は㈱アオバヤさんでした。

ポスティング業者に特化して、大震災の時にどのように行動し、配布員さんとの関係やお客様との関係がどのように変化していったかを直接お聞きするということができました。

 

災害国日本においては、いついかなる時に震災に襲われるかわかりません。ポスティング業という同業他社が一同に集まり、震災当時の生生しい貴重なお話をお聞きすることができました。またその場で、参加者から義援金を拠出して、4社へ直接お渡しすることができました。

その後、数年にわたり、当社と㈱アオバヤさんとの社員同士の合同会議というのを数回開催しました。

 

夜は、会食をともにし、お互いの情報交換と交流が活発にできました。

←皆で手をつないで歌を歌ったり・・・

 ←ある年には、隅田川の屋形船で宴会を開いたりしました。

ポスティングビジネスの黎明期に2社の社員どおしがこのように交流を持てたことは、今となっては奇跡とも言えます。

東日本大震災から2年たったころ、㈱アオバヤさんが被災地の海岸沿いを、マラソンと同じ約40kmを歩くチャリティウォークイベントを主催するということをお聞きしました。そこで、当社でも社内で参加者を募集することにしました。

(次回へつづく)

 

 

 

2024

03.15

10年前の3月11日東日本大震災が発生しました。

しかし、津波、原発事故、ガソリン不足、電力不足と次々と状況が変化していきました。東京電力が計画停電を行うという情報が流れました。当社で展開しているまかせて甲府、韮崎は、東京電力の管内でした。急遽、本社にあった灯油ストーブを2台甲府へもっていきました。

いつ電気が止まるかもという状況で、暖房は必須でした。ガソリンスタンドへ列をつなぐ光景もあちこちで見かけました。ガソリンの携行缶も極端に不足していました。

東北地方の状況は、もっと過酷な状況で、日々変化していました。地震も大小続いていました。

当社でも東北で頑張っている㈱アオバヤさんを応援に行こうということになり、社員から義援金を集めました。

そして、4月中旬、甲府にあったハイゼットに荷物を積んで社員1名と私の2名で東北に行きました。応援用の栄養ドリンク剤400本も積みました。食料品、寝袋持参です。やっと東北自動車道が開通していましたが、東北新幹線はいたるところが災害復旧の最中でした。

途中、福島第一原発周辺の状況を見るために、福島県南相馬市に入り、1日災害ボランティアに参加しました。

↑南相馬市のボランティアセンター受付、若い人たちががんばっていました。

状況は想像を絶するものでした。しかも、放射線量も高くていろんな情報が氾濫しているなか、全国から若い人たちがたくさん応援に来ているのをみて、この国はなんてすごいのかと感動したことを覚えています。皆さん、仕事や学校を休んできていました。公園にテントを張って野宿して参加していました。

 

私たちが行ったのは、南相馬市鹿島区のこんな集落の泥の掻き出しを手伝いました。青いつなぎの2人の男の子は、地元の高校生でした。一緒にボランティアしました。1ケ月ぶりに海岸近くに来たと言っていました。高校は休校中で何もすることがなく、ボランティアに来たと言っていました。自分の知っている町が、なくなっていてショックを受けていました。

↑地元の人とボランティアのみ入れる自衛隊が用意してくれたお風呂に入り、夜はハイゼットで寝ました。お風呂は、小学校の校庭に、広島から来ていた自衛隊の部隊が「もみじ湯」というのれんを掲げていました。自衛隊の活躍を目の当たりにして、この国に誇りを持つことができました。

その後、㈱アオバヤさんの事務所を、福島県郡山市と宮城県仙台市をまわり、社員から集めた義援金と栄養ドリンク剤を手渡すことができました。仙台では、社長から「良く来てくれた!」とおいしい牛タン定食をごちそうになりました。

また、仙台市のとなりの海岸沿いの七ケ浜町という町で、ちょうどチラシを配ってほしいというお客様がいるから、折角来たのだから、一緒にポスティングしようという話になりました。それは、望むところということで、㈱アオバヤの社員の方々と一緒にポスティングしました。

チラシの依頼主は、地元七ケ浜町の歯医者さんでした。海岸沿いの歯医者さんで、津波に半分呑まれて休業中でしたが、やっと片づけが終わり、営業再開しますよというチラシでした。本当にワープロで作った簡単なチラシでしたが、心がこもっていました。健康保険証がなくても、診察できますので、安心してくださいと書いてあり、細かな心遣いに感動しました。

ポスティングしていると、家の片づけをしている人が、次々と声をかけてくれました。「何を配っているの?」「あの歯医者さん、再開するんですね。」「先生自ら、チラシ配りご苦労様!」など。どうも私が歯科医に見られたようです。

ポスティングという事業が、このような大災害が起きた後でも需要があり、社会のインフラになっているということを実感した出来事でした。

本当に別世界になっていた東北地方をいろいろと見ながら、いよいよ帰ろうとしたところ、過酷な長距離運転に耐えられず、ついにハイゼットのエンジンが動かなくなってしまいました。

レッカー車を依頼し、夜通し東北道、中央道を走り、まかせて甲府についたのは、明け方でした。

↑福島県二本松市のレッカー業者の社長さん自ら運転して、山梨県甲府市までハイゼットと私たちを運んでくれました。

東北地方から帰ってきてしばらくは仕事が手につかないほどに疲れ、同じ日本で起きていることを自らのこととして実感できるようになりました。

この後、㈱アオバヤさんと当社の社員どおしの交流が生まれていきます。

(つづく)

 

 

 

 

2024

03.11

今月になってぐっと多くなってきた3.11関連のニュース。みなさんもなにか思うところがあると思います。

 

 

2011年3月11日(金)、午後2時46分に何をしていましたか?

 

 

 

当社では、ちょうどその時、幹部社員が長野県松本市の会計事務所に集まって会議中でした。議題は、2011年度の経営計画書の作成でした。1分を超える振動にただならぬ地震であったことは、想像できましたが、会議は続行しました。その後、17時ころから本社(当時は、松本市)に移動して、慰労会でした。

テイクアウトで、大皿料理を頼んであったので、立食パーティという段取りでした。ところが、そのころから、携帯のニュースやラジオから流れるニュースが、ただならぬ状況になっていました。

お酒を飲みながら、立食パーティという雰囲気ではなくなり、早々にお開きにして、皆自宅へ直行しました。たぶん、それからは社員の皆さんは、自宅でテレビから流れてくる東北地方のニュースにくぎ付けになったことでしょう。

私も家に帰ってから、テレビの映像を見て、信じられない!という感じでした。同じ日本で起きていることとは信じられない光景でした。

翌日、3月12日(土)早朝3時59分ころには、長野県北部地震が発生しました。長野県栄村では、震度6強を観測し、死者3名、けが人数十人を超えました。

 

あれからもう10年、まだ10年、当社の社員もかなり入れ替わったなぁと、感慨深いものがあります。

会社も、経営計画書の作成も、続いていることは、変わりありませんが・・・。

当時、東北地方で懇意にしているポスティング会社がありました。その会社がどうなっているのか?連絡もつかず心配しました。

数日後、やっとのことで、その会社の社長、常務と連絡がとれました。会社名は、㈱アオバヤさんといいます。

当社と㈱アオバヤさんは、東日本大震災をきっかけとして深くお付き合いをさせていただくようになりました。

(つづく)

 

 

 

 

 

2024

03.03

春は名のみの風の寒さや~、

ご存じ早春賦の歌いだしの部分です。童謡唱歌?の「早春賦(そうしゅんふ)」は、作詞家吉丸一昌が、旧制大町中学の校歌の制作を依頼された際に、大町から安曇野をめぐってつくられた歌です。毎年、安曇野では早春賦をみなで歌うイベントがありました。(今年は開催はどうなっているのでしょうか?)

最近は、4月下旬のような暖かいもあれば、氷点下になる寒い日もあり、体調管理が大変です。

ポスティングしている配布員さんも、服装などに気を使いながら体調管理しながら、仕事に励んでいただきたいと思います。

 

 

あるJRの駅前にこのような像を見つけました。

薪を背負いながら本を読んている、ご存じ二宮金次郎像に、真っ赤なマフラーがまかれていました。駅員の方か、地元の方の心遣いでしょうね。

寒い朝には、こちらのほうまでなにか温かいものを感じます。

 

しかし、同じ駅のロータリーには、このような銅像もありました。

 

こちらのほうが、寒そうです。どなたかマフラーや服を着せてあげてください。

と思ったのは、私だけでしょうか?

 

2024

02.04

長野県の南の地方を、南信濃、南信州という意味で南信(なんしん)地方と呼びます。南信地方の特産物に、市田柿があります。干し柿のブランドです。

毎年、晩秋から冬にかけて農家の軒先には、このような柿すだれという風景が見られるのが、南信地方の風物詩になっています。近年は衛生管理が厳格化されているために、ビニールハウスなどの中につるされることが多くなり、このような風景を見ることがなくなりました。

しかし、どっこい、市田柿という商品はどんどん進化を遂げていました。

地元JAの直売所などには、この時期市田柿が贈答用もふくめて、山のように出荷されて、どんどん売れています。

 

その中に、出たー!勝利の一打柿(市田柿) 柿ーン!!というパッケージを見つけました。野球選手がバットを振っています。↓

裏返すと、こんなデザインです。↓

応援メッセージが書き込めるようになっています。そうです、これは、受験生に贈る合格祈願の市田柿なのです。個別包装された市田柿が2個はいっているそうです。

売り場にはこんなポップが・・・

なんでも飯田市のとなりの高森町にある菅原神社で合格祈願されたもののようです。あの京都にある学問の神様、菅原道真をまつってある北野天満宮にあやかっているような感じです。同じ菅原ということで、(高森町の)菅原神社で祈祷されたということのようです。

我が家でも受験生がいますので、1個購入しました。当社社員の家族にも受験生が何人もいます。この時期、家族も気が気でもないと思いますが、この際、神頼み、柿頼み、なんでもチャレンジしてみましょう。

JAの売り場をみると、まだまだ市田柿の商品がありました。

「市田柿マスク」

「市田柿コスメミスト」

「市田柿フェイスマスク」

「市田柿スキンクリーム」

などなど

もう意味が分かりません。

「勝利の一打柿」のような奇抜なネーミングと商品のコラボなど、市田柿がどんどん進化していることは、分かりました。

当社も地元JAさんに見習って、ポスティングの商品を磨いていかなくては・・・と、急に経営者としての我に返ることになりました。

ともあれ、受験生の皆さん、最後の追い込み、がんばれ~!

 

2024

01.15

皆さん、初夢は見ましたか?

1月1日の夜みる夢が初夢だとか、いやいや2日の夜みる夢が初夢だとか議論があるようですが、最近、夢を見なくなった人も多いのではないでしょうか?

昔の人は考えました。枕元に縁起のよい、七福神の宝船の絵を書き、そこにこんな和歌をしたためました。

「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」

枕の下に、この和歌を書いた和紙を敷き、眠ったようです。正月のラジオを聴いていたら、本当にこのような風習があったようで、女性ラジオパーソナリティさんの家では、毎年父親が書いてくれていたそうです。

この和歌は、大変縁起が良いといわれており、最初から読んでも最後から読んでも同じことばになる、いわゆる回文といわれるものです。

 

どうも、日本人は回るもの、丸いものに対する愛着が大きいような気がします。

大好きな花火も丸くあがります。

 

 

 

諏訪湖もまる~い、現在、3年ぶりに全面結氷されており、御神渡りが期待されています。

 

年末に見た富士山の雲も丸かった。

 

 

今年の私の「夢と目標」を模造紙に書き出してみました。過日、当社恒例の夢と目標発表会が開催されました。詳細は別途。

今年は、まあ~るく 行きましょう!

 

 

 

 

 

 

 

2024

01.04

2021年新年明けましておめでとうございます。

皆さんは、どのような年末年始をお過ごしでしたでしょうか?

(有)ペーパー・シャワーズは、この1月で創立21年目になります。創業でいうと23年目になります。今年新成人になる人たちは、まだこの世に生まれていませんでした。このように歴史を刻み続けて、存続してこれたことに我ながら大変驚いています。

そして、同時に多くの人との出会いと別れがあったのも、会社を創立したあの21年前の冬があったからだと、あらためて若いころの自分の原点を思い起しているところです。歴史に、「もしも」はあり得ないということですが、もしも、あの時に創業していなかったら、どうなっていたのでしょうか?

現在、(有)ペーパー・シャワーズは、ポスティング業(まかせてグループ)と、住宅購入相談所(すまいポート)の2つの事業により、社会に貢献するビジネスを展開しております。この2つの事業に共通することがらは、

①社会のインフラ事業になりうる人が介する地道なビジネスであること

②インターネットが今より発達しても無くならないビジネスであること

③中国や東南アジアなどの安い人件費の国にとって代わられることがないビジネスであること

であるということです。

当社では、これからも永続的な発展していくために、努力をかかさずに前を向いていきたいと考えています。お客様、当社の配布員さん、社員の皆さん、金融機関・地方自治体の皆さん、当社にかかわるすべての皆さんに関わって良かったと思っていただける会社を目指していきますので、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

(以下は個人的なできごとです)

毎年、産まれてはじめてのことにチャレンジすることを、信条としています。昨年末、ある大型ショッピングセンターに行った際に、催事場で「掛け軸展示即売会」というのを行っていました。立ち止まって見る人は、ほとんどいません。

私も、今までの人生で「掛け軸」のことを考えたのは、累計10分以内だと思います。しかし、なぜかその時、「掛け軸」について、展示会場で30分ほど、鑑賞して考えてしまいました。そして、そこにあった1幅の掛け軸を購入することにしました。大谷秋月という作者の「十全図」という画題のものでした。複製品ですが・・・。

赤い富士山をはじめとして縁起の良いものが10個、描かれているという掛け軸でした。他県から来ていた古物商のおじさんが、会計の時「5000円安くしておくよ」とその場で値引きしてくれ、名刺ももらいました。

我が家の玄関入り口にいま、飾られています。

妻に怒られるかと思いましたが、意外と快く思ってくれたようでほっとしました。

それから数日後、珍しい富士山を見ました。

富士山に雲の傘がかかって、UFOのようになっています。

世の中のいろいろなことを繋げて考えることができるような年齢になったことを実感しました。

 

激変の世は、産まれて初めてのことにチャレンジするチャンスでもあると思います。私の中の、美意識を鍛えるようなことも続けていきたいと思いました。

本年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

2024

12.15

お待たせしました。

五島慶太と青木村に関わる私の物語のつづきです。後編のはじまりです。

東急電鉄グループの創始者の五島慶太は、長野県青木村の出身でした。青木村に行くと、村全体で五島慶太のことを誇りに思っているということがひしひしと感じられました。私は、パンフレットに載っていた五島慶太の生家を訪ねることにしました。

パンフレットにあった生家の写真と地図をたよりに・・・・

←これが生家の写真

途中で、小枝を折って道に地図を書いてくれるおじいさんに出会い、ワクワク感と静かな集落のたたずまいに酔いながら、山に向かって道を上っていきました。

そして、集落の終わりが見えてきました。

しかし、パンフレットにあったような家がありません!

人の気配がしたので、近くの家の呼び鈴を鳴らしてみました。70代くらいのおばあさんが玄関にでてきて対応してくれました。「あの~、五島慶太の生家はどちらでしょうか?」「あぁ、この目の前のブルーシートがかかっているところだよ。火事で焼けたんだよ。」

えっ!

 

「いつ、火事で・・・?」「えぇーと、あれはな、夏だったな」「おばあさんは、五島慶太って会ったことあるんですか?」「いいや、いいや、私がこの家に嫁って来た頃には、いなかったな。でも、大きな家だった」としばらく雑談に花が咲きました。

平成30年8月14日午後、青木村は激しい局地的雷雨に見舞われました。その時に発生した落雷が原因で、生家は全焼します。奇しくも、五島慶太の59回忌の命日にあたる日でした。

五島慶太の没後、59年目の命日に、落雷生家全焼!

そういえば、青木村が誇る郷土の偉人の生家に行く道に、なぜ、分かりやすい標識がないのだろう?と思っていました。(しかし、そのおかげで小枝で道を書いてくれたおじいさんや、生家のすぐ隣に嫁って来たおばあさんと話ができたのですが・・・)

 

衝撃の事実を目の当たりにして、集落の道を今度は下って、車の置いてあるところまで戻ってきました。

 

 

 

さてと・・・今度は、私の物語にしましょう。

青木村に来たのには、五島慶太とほかにもう一つの目的、「青木村に関わる私の物語」があったのでした。

それは、こんなところに表れています。

青木村消防団・・・村松分団! ん?ムラマツブンダン・・・。

 

 

「社神松村」ですが、右から読むと「村松神社」!ムラマツジンジャ・・・。

そうです、青木村のこの集落は、「村松」であふれているのです。なぜなら、青木村村松という地名だからです。私のご先祖さんも、なにかこの地に関係があったのかな?と想いを巡らせながら歩いてきました。大変たのしい時間でした。

村松神社のたたずまいも堂々としていて、狛犬が2体きちんと鎮座していました。戸には、厳重なカギがかかっていましたが、その横に少し穴があいていて、賽銭を入れるようになっていましたので、ありったけの小銭を入れてお参りしてきました。

そして振り向くと・・・

 

農村歌舞伎か、浄瑠璃なんかを演じるような大きな舞台の建物がありました。きっと、この広場にたくさんのひとが集まるお祭りがあるんだろうな。全国の村松姓の人たちが集まるお祭りを開けば楽しいだろうな・・・などと思いながら青木村をあとにしました。

いかがでしたか?

五島慶太と青木村に関わる私の物語、2回に分けてご覧いただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

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